真黒日記

このブログはあなたの心の闇に共感する日記です。YouTubeで活動しています。ブログでは見られない情報やエンタメなどの動画もありますので、ご視聴したい方はぜひYouTubeにも覗きに来てみてください^_^

【動画を投稿したくなる強迫観念と自慰行為】

『動画で観たい方はこちらから→https://youtu.be/fHPlUqvNR-g

最近、動画を投稿する行為を再開してから、動画を作りたいと言う欲と一緒に、動画を作らないといけないと言う強迫観念がある

作れ作れと強迫観念が訴えてくる

 

それと、チャンネルをやり直したのか、あまり見てくれる人が少ない

だけど、だし続ける

自分が気持ちよくなるために

 

達成感もあるけど、ほとんど自己満足で終わっている

金を貰わず、自分の心を満たすために

ようは自慰行為

マスターベーションと同じだ

 

出しては、ネタを考え、また出す

そう言った感覚に満足までは行かないけど

充実感を覚えている

 

いつになってもそうだ

就職した時からか

チャンネルを作り、動画を出すようになったのは

なぜ、出すようになったのか

 

それは、不満が募っていたから

この世間体と言う社会に

不満があるから、ネタが浮かんでくる

 

多分、社会で働いている

いや、働かなくても

この社会で、生きている以上

ネタが無限に湧いてくるだろう

 

だから、投稿を止めることもないのだろう

今じゃ、いつ死んでもいいように

遺書の代わりのようになっている

 

もとは、といえば、漫画家になりたかった

それは、自分の考えたネタを世間に公表したいと言う欲から、そう言う夢ができた

だが、それも、もう難しい

漫画家になるなんて、一握りだから

 

だから、その代わりに不満という塊をネタとして動画を投稿するようになったのかもしれない

ようは、この世界への誹謗中傷

この社会のアンチ

 

認めるよ

俺は誹謗中傷する奴らと一緒だ

そうだ、アンチヒーロー

俺は、お前らを社会を否定したかった

だから、出すようになった

お前らの言ってることなんて知らねぇよって

 

今は違う

ただ投稿する

また、あいつらがきたらチャンネルを変え、投稿する

名前を変えても、チャンネルを変えても何度でも投稿する

もう、意味も理由もいらない

 

この行いに意味が生まれるのは

俺が死んで 何百年も経った後なのかもしれない

きっと俺は大きな、何かの歯車の1つにすぎないんだと思う

錆びつくまで、動画を投稿し続ける

それが、このチャンネルの俺の役割なんだ

 

そして

納得の積み重ねで結果が現れる

 

だろ?

だから、投稿し続ける

【だから、僕は反出生主義なんだ】

『動画で観たい方はこちらから→https://youtu.be/mXoXazQ4SVM

いつからだろうか

 

こういう思想に溶け込むようになったのは

この世から人間がいなくなれば良いのにと

そしたら、苦しみや悪が無くなるのにと

 

いつからだろうな

たしか、僕が精神疾患を患うようになったからなのかな

 

人間に接するのが面倒くさくなったのか

人間を恐れるようになったのか

憎悪で満ちるようになったのか

 

それも、もうどうでもいい

考えるのもめんどくさくなった

 

ただ

憎い

 

そんな感情が脳へ身体へ浸透してく

そんなことを考えても、憎悪を止めても何も変わらないのであろう

 

いつしか考えるようになった

この世は無意味で意味もない道を歩いているのだと

 

どんなに道を変えても変わらない

無意味な道だ

 

”ニヒリスト”という言葉をご存知だろうか?

前にも動画で説明したが

”ニヒリスト”とは、虚無主義といって人生に何の意味も理由もないという思想の人たちをいう

 

僕もその1人だ

人生にも、理にも何の意味もない

悟った結果がこれだ

 

始まりがあれば、いずれ終わりが来る

いくら子孫を残そうと、いつか世界は消滅する

 

だから、喜びも悲しみも世界からしたらちっぽけなことで一瞬にも見たない

要は、人生は一瞬の喜劇と悲劇の量産だ

ただ無意味な量産

 

いくら喜びを探しても楽を探しても

それすらも一瞬で意味なんて見出せない代物

 

だからと言って、何が楽しいんだろや何のために生きてるかと問われても

意味は自分で見出せ、探せとしか言いようがない

 

なぜなら、脳があり、身体があり、神経が通って思考できるからだ

ましては、無垢の何も考えれない人間じゃないから

 

しかし、理由は見つからない

意味は見つかるが理由は見つからない

 

なぜって、それは親が勝手に我々を産み落としたにすぎないからだ

好きで生まれたわけではない

 

だが、生まれたからには最終的に働くことになる

そのために義務教育や教育が存在する

より、国の経済を回し発展させるために

そういう人材に仕立て上げるために

 

だが、そう言った働くと言った行為の先には

娯楽というものに繋がっている

ミュージシャンやショップの店員、野球選手

その他色々な職種があるが

どれもこれも娯楽として求められているから

それらで働く

 

この動画を出しているのも見る人の”娯楽”の1つだ

ましてや、エアコンや車の部品を作る工場だって、移動手段として乗る車、ドライブで楽しむ人たち、季節の時々に温度を快適にしようとエアコンを使用する人たち

そう言った、人たちは娯楽のために好んで購入し人を使っている

働くツールも娯楽を営むツールも、所詮が、お金を稼ぎ、消費するツールでしかない

 

結局、学校でも会社でも建前でしかなく

会社の奴隷となり

会社で働いて稼いだお金はすぐになくなってしまう

 

何のために稼いだか、わからなくなり

しょうもない

 

働いても働かなくても一緒でつまらないものはつまらない

長期休暇ではっきり分かった

狭い世間体という世界でそれぞれ生きている

 

そう言った金を稼ぐというツールも

それすら、娯楽を嗜もうが求めようが、いずれそれも、消える

死んでいき子孫すらもいなくなっていく

そして、地球も宇宙も世界も終わっていく

 

全くもって、くだらない

滑稽だ

馬鹿げて、もう、どうでもいいぐらいだ

 

何のために、何を残して死んでいくのか

それすらも、腑に落ちずに死んでいく

結局は、何も残らないんだから

 

全てがしょうもない くだらなく滑稽だ 皮肉としかいいようがない

何も残らないのに、足掻いてどうする

いずれ朽ちる 朽ち果てる

 

そして、人間は負の感情で動いている

もう、人間に機嫌を取るのも

悪を見るのも疲れた

 

動物だって人間だってエゴに満ちている

いっそう、全てが終われば

気が楽なのに

 

いつ死んでも同じなのだから

みんな滅びれば

そんな希死念慮

 

これが危険で惨たらしく、邪悪な思想なのは

分かっている

分かっているのに

その考えが込み上げる

だから、ゲームも釣りも酒も、もうやめた

 

悟ったその日から

人生には理由もない

ただ、自然淘汰謳歌するばかりである

 

そう、意味などない

人生はコメディなのだから

【休日になると金がなくなる】

『動画で観たい方はこちらから→https://youtu.be/1VjULdBUbw0

休日になると、お金がなくなる

至極当然の事だろう

 

人はやる事が無くなるとお金を使う…と同時に、人は快楽を求めるとお金を使う

僕も休職をして1年半たったが、仕事をしていたころより、休んでいる時の方がお金を支出というか、浪費している

 

なぜか

コンビニやスーパーによく行くからだ

 

仕事をしていた時も、もちろんお金は使っていた

それこそ、Amazonでよく注文していた

仕事中は仕事をしているので、お金を使うことはできないが、休み時間などはAmazonでよく買い物をしていた

唯一の楽しみがそれくらいしかないからだ

 

だから、Amazonやネットショッピングばかり利用していた

だが、金額は知れてる所詮は休みという隙間時間しかネットを活用していないから

 

しかし、四六時中、ネットショッピングを活用したら

減るのは時間と金だけだ

 

さらに長期休みだと、やることがなくなるので、唯一の楽しみが買い物と食になり、金ばかり使い、それすらもマンネリし快楽が悪循環になってしまう

仕事をしていて、たまの休みなら金を使うとしても知れている

 

なぜなら、仕事をしていれば、平日できなかったことが休みの日に集中する

すると、例えば、趣味などの

庭の手入れやゲーム、犬を飼っている人なら犬をその分触れ合う 人によってもやりたいことは様々で

その趣味が仕事日だとできない場合が多い

時間がないからだ

 

Amazon楽天など、仕事の休憩時間にお金使おうと思えば使えて、その分減っていく

しかし、限度があり、どのくらい使ったか把握できる

履歴などを見れば、自ずとわかるだろう

 

たが、僕が長期休暇をとって知った

休みであればあるほど、お金は減っていくと

 

まず、長い休みだと時間が有り余り、暇になる

すると、欲が芽生え

美味しいものが食べたくなる

仕事が終わった後のご飯は、適当なご飯でもメチャクチャ美味しくかんじる

だが、休みだとマンネリして、もっと美味しいものが食べたくなる

 

結果、外食や買い物が増える

これは僕に限った話かもしれない

中には、長い休みに食事に関するものではないものを頻繁に買ってしまって物で溢れる人もいるだろう

 

僕は半ミニマリストの部分があるから物ではなく、食に金を使ってしまう

それ以外でも、趣味にお金を使う場合がある

休みだと、時間があるので趣味をすることも増える

 

例えば、一般的に言えば、釣りやギャンブルや風俗や銭湯などだろう

 

僕は前にも言ったけど友達だと思ってたのがいた

昔、そいつにいじめられてて、長い休みに入ったら、そいつから連絡が来て、改心したような連絡で、また、遊ばないかと

バカな僕は信じて一生に釣りをするようになった

 

結果、イジメの延長で150万取られた

100万はキャッシュカードを不正利用され、50万はいろいろと奢らされた

今金がないから、出してくれないかって

その結果、休みの1年10かっ月で200万あったのが50万程度になった

 

趣味で釣りをするのもそうだけど、盗られましたのも、かなりお金が減った理由だ

だから、友達も趣味も選んだほうがいい

それとカード払いもやめたほうがいい

どのくらい使ったか確認を怠る場合がある

 

食事の買い物もそうだ

いくら現金だからって、頻繁スーパーや近くのコンビニに行って残高やどのくらい使ったか把握してないと、知らず知らずに使ってしまうから

友達も趣味も食事も娯楽も休日になると、そればかりに集中して、周りが見えなくなる

だから、金の使い方には気をつけたほうがいい

 

家計簿やメモに残したり、そうやって計算しないと最悪破綻になりかねない

そう思うと仕事して金を稼いでいる時が一番、充実してると思った

【憎しみと言う強迫観念「強迫性障害について❷」】

『動画で観たい方はこちらから→https://youtu.be/JZyMsMhLsO4

僕は何度も言う様だけど、昔は重度の強迫性障害でした

で、今も薬で抑えられている形です

 

しかし、僕の人生は苦痛つまり強迫観念に囚われ、縛られている人生で

現在も本を読めと強迫観念が働き、無理矢理、本をまとめている状態だ

 

休業をとっても強迫観念に振り回されて、休めない

だから、伝えたい

強迫観念で苦しめられている人に…

 

と言う事で

今回は、強迫観念について教えます

まず、強迫性障害という病をおさらいしましょう

 

この病は、強迫症や強迫性スペクトラム障害といい

強い不安や恐怖、こだわりがあることで、“やりすぎ”ともいえる考え、つまり強迫観念

や行動を止めることができず、日常生活に支障が出てしまう病気のこと

 

そのうちの今回は、強迫症の代表である

強迫観念について触れようと思う

 

強迫観念は人によって様々な症状があり、度合いも様々である

よく認められる強迫観念には、大きく4つある

 

・汚染恐怖や不潔恐怖→汚染や洗浄へのとらわれ

・加害恐怖→禁断的思考へのとらわれ

・不完全恐怖→対称性へのとらわれ

・ため込み障害→物をため込むことへのとらわれ

 

まず

・汚染恐怖や不潔恐怖→汚染や洗浄へのとらわれるでは

何度も同じところを掃除

手を何回も洗って手が荒れる

潔癖症になる

汚いところがさわれない

汚いモノを見ると自分が汚染された様な気分になる

 

次に

・不完全恐怖→対称性へのとらわれ

これをやらないと不幸になる

これを最後までやらないと痛い目に遭う

思考が極端で0か100の様にやるかやらないか

字をしっかり綺麗に書かないといけない

ミスをしてはいけない

自分が手をつけたものには最後までやる責任があるとか

これを他人にまで強制してしまう事がある

ある種の完璧主義である

 

次に

・加害恐怖→禁断的思考へのとらわれ

相手に不快になっていないか

周りを傷つけていないか不安になる

時には、やってはいけないことをやりたくなったり、それをやらないと不幸になると思考が働いたりする

 

次に

・ため込み障害→物をため込むことへのとらわれ

文字通り、モノを溜め込み片づけられなくなる

これは、物を溜め込む症状と整理整頓ばかりしてしまう症状に別れる

物を溜め込む症状では、店などで物があると今、集めないといけないという強い強迫観念を持ち、また物を捨てることに不安を感じる

 

逆のパターンの整理整頓ばかりする症状では、先述した様に

汚染恐怖や不潔恐怖が関わり、物を捨て綺麗にしないといけない思考になり強迫観念が働く

僕も整理整頓をしてしまう症状で、実際に整理整頓が快感になっている

一種の断捨離症だ

この、整理整頓や片付けられないと言った症状は強迫症に限らず、うつ病統合失調症など精神疾患に多い

 

代表として主な四つの強迫観念を上げたが

それ以外にも強迫観念の種類は沢山ある

 

これは、各個人にも症状の差がある様に、その人の中で症状や観念が徐々に変化し

新たな種類の強迫観念が生まれていくというものである

 

〈例えば〉

歩いている時に落とし物をしていないか、いちいち後ろを振り返ったり

家中の電気のスイッチなどの小さな動作1つ1つを大丈夫と納得するまで行う

自分の大事な物を持っていると確証があるのに、どこかに消えたと不安になり何度も確認する

無意味なことも何度もやろうとする

この見ている世界が本当に現実か不安になる

目の前にある物が、本当に現実にある物なのか分からなくなる

確認を怠ったら、頭がボーっとして、すぐ忘れ物をする

何度も確認をすれば良い事があるよと誘惑観念で何度も確認してしまう

店で商品に指紋をつけると犯罪に巻き込まれるかもしれないからと思い、日常で手袋をはめる

Twitterのツイートをしていた時でも、素手スマホを触っていると指紋が犯罪に悪用されるんじゃないかと思い込み、手袋をはめツイートをしていた

 

この様に沢山の強迫観念の例を挙げさせてもらったが、これらの症状はすべて僕も体験した症状である

 

他にも自傷行為、自殺企画、性的行動化、暴力に生じる場合もある

なにしろ各個人で強迫観念がいろんな症状に枝分かれしていくこともある

 

また、強迫観念を無視しようとすると

逆に強迫観念が強くなる

強迫観念に従っても従わなくても放っておいたら悪化する

 

このようなことが続くと、回避行動が強くなる

確認に周囲を巻き込む(他人を巻き込む巻き込み型で他人にも手を洗うことを強要したりするなど)

という傾向が強くなり

それによって我慢が聞かなくなってしまい、強迫症状が悪化していく

 

そのような中でうつ病など、他の心の病気を合併してしまうことが少ない

いわゆる他の精神疾患に分裂していく分裂症である

 

だから、強迫症精神疾患の防波堤の様な役割があり、他の精神疾患も伴ってしまう

 

〈例えば〉

うつ病発達障害パニック障害統合失調症双極性障害になってしまう場合もある

また、逆にそう言った精神疾患発達障害、チック症から強迫性障害になり合併していくケースもある

 

なので、強迫観念にはこんな症状もある

・抜毛症

・皮膚むしり症

・身体醜形障害

 

この様な症状は従来は不安や衝動コントロールの問題と考えられてきたが

本質は強迫性障害に近いことがわかってきて、現在は強迫性スペクトラム障害に分類されるようになった

僕もADHD強迫症になった

精神疾患同士は心の問題なので合併しやすい

全く厄介な物である

 

〈追記〉ADHDと思っていた落ち着きがない症状は、実は大量の安定剤などの服用の副作用でした

ADHDの症状と勘違いしてましたが、実際に疾患の分離や合併はあります

結果的に、医師の推奨での薬物乱用で大量に服用していましたが、体がおかしくなり仕事の作業面やいじめっ子に付け込まれ窃盗の件などで二次被害になったので、いくら安定剤でも薬は怖いと思いました

いまだに、なぜ1日1回8粒まで心療内科の医師が薬を処方したのかわかりません

まぁ、なんとなくは、気づい…

 

話は戻り、それでも通院中で薬を医師から処方してもらっている最中なら、それを続け飲み続けなければならない

でないと、より酷くぶり返し

先ほど言ったように、疾患の分離や合併に繋がってしまう

 

だから、薬が必要だが、一回薬を始めると辞めて戻った時に症状の反動が大きい

だけど、薬に頼らないと平穏な生活もままならない

と_。

 

強迫観念の話に戻ろう

強迫観念は各個人によってレベルや種類の差が違うが

僕は例外中の例外な強迫観念を患った

 

それは憎悪

つまり憎しみだ

 

強迫性障害を患った当初はそんな事なかったが

強迫観念という症状がだんだん自分の中で、生まれつきの性質に伴い変化していった

 

愛と憎悪の性質

愛がなければ、そいつを憎め

そんな強迫観念

 

愛がないエゴには憎悪が湧く

だからなのか、僕の周りがエゴだらけで

エゴに塗れているから

憎しみしか湧かなくなった

 

このエゴだらけの世界が憎いと

この全てが憎いと

この様な憎悪という強迫観念がエゴにベクトルを向ける

 

エゴを嫌い 愛を好む

エゴと愛は表裏一体だから

醜いエゴには憎悪を

美しい愛には感動を

 

憎悪という強迫観念

僕はそんな強迫観念という器になってしまった

 

まるで憎しみが大義の様に

愛と憎悪の産物 愛と憎悪の器 愛と憎悪の現存

完璧主義という極端な性格がその性質を作り出したかもしれない

 

そもそもといえば、どんな人でも徐々にでも突発的でも強迫性障害になるキッカケはあるだろう

その原因はなにか

それは、後悔によるものが大半だ

 

いじめられたのが初めのキッカケだった

そしてそれを皮切りに、そのいじめで言われたことや侮辱発言から自己嫌悪に陥り

それが連鎖して、結果に失敗し、自分の行った過程に問題があるのではないかと、自分がやった事に無駄な責任を持ち、出来なかったや周りに迷惑をかけたなどに絶望感や後悔を抱き、その後悔が心の中で育って強迫性障害になっていった

 

強迫症になる人は、繊細で几帳面で倹約家的な傾向があり、完璧主義な性格の面も持ち合わせ、自分の決めたルールや秩序を守る事を好む(誠実的)

 

よって、完璧に思い通りに出来なかったなどの後悔により、次はこう完璧にやろうや

次はちゃんとやらなければいけないから確認を怠るなや

そんな、自分を律する精神状態が爆発し強迫性障害になる

自身に課した呪いという縛り

そういった呪縛が自分を苦しめてしまう

全て自分の問題にしてしまう

 

なので、強迫症の患者は、とにかく医療機関に受診したがらない傾向がある

だから、我慢せず医療機関に受診し薬をもらう事が不可欠である

 

僕も、なかなか病院に行かなかった

なぜなら、症状には気づいていたけど

その強迫行為が自分的に当たり前のものだと認識していたためである

 

だから、少しでも自分自身を律出しているなど、おかしいと思ったら病院に行ってください

それが、自分の人生の道標になります

 

今回は2回目の”強迫性障害”の話でした

 

過去にも強迫症の事に触れた動画を出しているので、ご視聴してみてください

今回も、ご視聴ありがとうございました

 

憎しみという強迫観念という話でした

 

ただ僕は強迫観念という縛り、枷によって、強くなれた、前に進めた

強迫観念があったから、こんなにも本が読めた、イラストの勉強を貪るようにできた

 

何かを犠牲にするからこそ、手に入るものがある

【死にたい人たちへ】

『動画で観たい方はこちらから→https://youtu.be/8au5AnCRFdc

僕はもう、こんな世界で生きたくない

最近、つくづくそう思う

 

僕の人生は苦しみしかなかった

どんなに足掻いても地獄なものは地獄だと

だから、頭の中で死にたいと常に訴えてくる

口癖にまでなっている気がする

 

そうなると、無意識に精神が死に向かっているのが認識できる

もう、疲れたんだよ

疲れ切ったんだ

いくら休もうとも疲れが取れない

なぜなら、生きてるから

 

死にたがりな精神に、僕はなった

そんな、自分を愛せない流行り病

 

だから、今回は死についてと反出生主義について深掘りしていこうと思う

今回は専門的な話になるから

2冊の「生まれてこなかった方が良かったのか」と「死とはなにか」と言う本から参照して

僕の意見も含めて混ぜて語っていこうと思う

 

反出生主義には、まず誕生害悪論と言う論理がある

 

まず、反出生主義とは何か

「自分は生まれてこないほうがよかった(誕生の否定)」と「人間は生まれない方が良いので生まない方がよい(出産の否定)」について考える、という思想で

誕生害悪論の基づき人間が生まれた以上は苦しみを背負う、さらには周りに苦しみを与えるから人間を生むことは害悪という思想である

 

この世は苦しみしかないから苦しみしか味わえないから存在するよりも存在しない方がいい

快楽と苦痛は非対称で

もしも快楽と苦痛が同時に同じレベルで味わうとしたら

人間はネガティヴな方に情報を感じやすいので苦痛の方が深く大きく感じる

呼吸を無理に止めたように

たとえ幸せになったとしても幸せの閾値はどんどん上がっていく

 

例えるなら、仕事でたまの休みには快楽を感じるが

常に休みだと、何が快楽なのかわからなくなっていくような

さらに反出生主義によると進撃の巨人ジークの様な考えがある

存在して苦痛を味わうなら、たとえ快楽を得たとしても、快楽すらもない存在しない状態の方がいいのではないかと

だから、全人類が自然に居なくなる不自殺

 

つまり、自殺せずに人類が滅亡してく子供が産めなくなり自然に人間が居なくなる状態を望む思想

こうした、人間が行う加害行為に着目した主張もある

存在する苦しみの最小化

この世界からの死欲

 

この本では

子どもを産むか産まないかの理論でもこう定義されている

我々の非対称の義務→幸福な子どもを生み出す義務はないが、悲惨な子ども生み出さない義務はあると

 

人は生まれてから苦痛を伴えば快楽も味わう

しかし、苦しみの方が大いに感じやすく増大である

だから、子どもを産むなら、かなり検討する理由がある

皆も一度は思ったことはあるのではないか?

なんで、生まれてきたんだろうって

 

それは、端的にいえば親のエゴで親が勝手に産み落としたからである

今、自身が存在しているのであれば、生まれてからこのかた、死んでないだけである

大抵の親は答えられないだろう

子どもになんで生まれてきたの?と問われても

 

なぜなら、子どもが欲しいからと言う短絡的な理由だからだ

だから、安易に子どもを産んではいけないのである

一生は振り子のように苦痛と退屈を行ったり来たりするから

だから、快楽なんて二の次どころではない

 

たとえ、産んだ理由があったとしても家系を継がせると言う天皇や歌舞伎役者の思いで

それでも、子には苦痛でしかない

つまり、生とは苦しみだから

生まれたての赤子が最初に泣き叫ぶのも、それが理由だ

 

僕は嘘や偽りが嫌いだから、こうしてはっきり言う

じゃあ、なぜ性欲があるのか

それは、個体に死が訪れ、断絶しないように子孫を残そうとするからである

そうやって輪廻転生を繰り返している

 

だから、歴史的な哲学者達はそれから脱出を試みた

ここではアートマンブラフマンと言う難しい話になるから割愛しよう

結論的にいえば善から悪が誕生するから

 

悪がない無な状態=快楽であり

生まれてくる本人の方同意なく世に存在させるのは暴力的で許されない

とまあ、子どもは生まれてきて家族も選べなければ親も選べないわけである

 

今では、親ガチャと言う様な言葉がある様に

それこそ、毒親にあたったら地獄である

まあ、何が快楽かは自分で選べる

今の現実的な状態に注目して生まれてきたことを肯定してもいいが

それが難しいから、反出生主義と言う思想が誕生したのかもしれない

 

さて次は、この本の死について語っていきたい

死とは何か、死んだら無で、それは人格と運動機能が同時に停止して未来に、その人が存在しなくなると言う事

 

つまり、その人と同じ人格が存在しないかどうか

クローンがいない限り、人格は存在しないから死んだことになる

そして、人は死を恐れる

なぜなら、死を想像できず、人からは得体の知れないモノだと感じるから

さらに、いつ死ぬかわからないなら、より死への恐れがあるのである

 

そして、自殺についても触れよう

2つの本にも共通して定義されているのは

「自殺は推奨されているものはないが、場合によっては理にかなった解決策」だと

 

死んだ方がいいのかと言う問いには、各人の境遇によりきりで、人生の期間で楽よりも苦が勝る時、またそれが一生続く場合

結論的に自殺は合理的なのかといえば、死んだ方がマシか 本当にそれ相応の状況なのかの

両方がYesでなければ不合理と言うことである

 

だから、自殺は、時として合理的として正当化できる

 

人は不合理に自殺をしてしまう時があるそうだ→それは目の前の苦痛にしか目がいかず思考が曇った時に突発的に自殺を選んでしまう時

けれども、一生、安息よりもかなりの苦痛や苦悩を伴う時は安楽死や自殺を選ぶ方が

自分の未来の感覚的には合理的だも思う

 

それでも、人は未来を予知することなんてできないのだから、未来へ苦痛が続くもしくは

未来に苦痛や苦悩が伴うと言う事は知り得ない

だから、今のうちは自殺を選ぶには相応しくないかもしれない

そこは、僕にはわからない

 

ただ、言える事は誕生害悪論で人が生まれたから苦悩や苦痛を必ず味わうことになるから

人がどこでどう言う風に自殺を選ぶのかは人それぞれということになる

 

それとも、それを受け入れて生涯を最後まで生きるのか

芥川龍之介も、こんな名言を残している

「どうせ生きるのなら、苦しいのは当たり前だと思え」と

そのぐらい、生きると言うことには苦悩と苦痛が伴うのである

 

別に、このチャンネルでは自殺を推奨していない

それは、推奨すると僕が自殺教唆と言う罪になるからだ

 

僕は個人的に死にたいと思っているのだけど

自殺をしてもおかしくない精神状態かもしれない

だから、死にたいと言う口癖になったのかも

 

死がなぜ悪いのかというと、死によって周りが悲しむのもあるけれど、1番の理由が死によって未来に受けるはずだった幸福を味わえなくなってしまうからである

ある人は、1人でも人が死ねば、それだけでも国の経済損失になるから死が良くない理由というが

決してそうではない

それは倫理的にあり得ない

 

話を変えると

死にたいと人に言うと「死んだら周りが悲しむやら、死んだら家族がダメになり死んでもなお周りから恨まれるぞ」と言われるが

どれも無責任な言葉だ

そもそも、こう言う言葉と言うのは

死にたいと言う人の気持ちを許容しておらず

どんどん追い詰めている言葉だ

 

だから、自殺だけはダメとか、そんな事言うのは我慢しろ、周りに気を遣えと言っているように聞こえる

そもそも「死にたい」と言う言葉が出てくるって事は、相手ゆや周りに頼らず我慢して自分を押し殺した結果出てくる言葉である

なのに、もっと追い詰めてどうする?

 

僕から言わせれば、ただのエゴを押し付けているに過ぎない

知り合いに自殺した人が過去にいるからやめてほしいと言う意味も、あなたの感想であり、その自殺したい人を優先してないエゴな意見だ

 

まず、死にたいと相手に打ち明けられたなら

その気持ちを許容して、認めないといけない

その、なぜ死にたいか、なぜ死にたくなるような精神状態になったか聞いて認めたり、共感するなりしてから

最後まで相手の話を聞いてからアドバイスをするべきである

さらに、それでも自殺を止める人がいる

 

口だけならいくらでも言える

なら、どうだ、自殺をしたい人を幸せにできる力があればいいが

例えば{一生分の大金を与えたり

その力がないのに自殺をするなと言う言葉は無責任で、そうやって自殺否定する権利はない

ただの口だけの偽善者だ

 

世間の皆は世間体に縛られ、そこら辺を履き違えている

世間体、世間体とやめて欲しい

前にも世間体が嫌いだと言う動画を出したこともあるくらい

世間体が嫌いだ

 

そもそも、世間というか

世界というか、この世の中というか

人間社会というものが嫌いである

 

世間にはサイコパスや犯罪者、サディストといった関わると迷惑を被る奴らがいる

それこそ、悪口っぽくなるが

勝手に人のキャッシュカードを奴や、人からお金を騙し取る詐欺師、恩を仇で返すサイコパス、愚痴しか言わない奴、すぐに否定や揚げ足、嫌味、妬み、屁理屈を言う奴、マウントやパワハラをしてくる奴

簡単に嘘ばかりつく奴

ネットですぐ誹謗中傷する奴

イジメっこの様な調子に乗って弱いものイジメをする奴、人に底辺というレッテルを貼って洗脳しようとするマキャベリスト、通りすがっただけで陰口を言う奴 野菜嫌いだからと言って価値観を押し付けようとして侮辱してくる奴

 

この世には必要のない人間なんていないという言葉もあるけれど

本当にこの世に必要のない人間はいる

それが、自分のエゴで平気で周りに迷惑をかける奴や、そう言った犯罪者である

 

と、この様にゴミの様な人間が、この世間というか世界では蔓延っている

まるでゴミの量産の人間社会だ

人間自体が諸悪の根源の様に

 

そりゃあ、人間が生まれれば、こういう奴が中には出てきて、人間自体がエゴの産物で闇みたいなものだから

戦争もイジメも差別もハラスメントも犯罪もなくならない

到底、相手のことなんて理解しようともしない

理解できない

自分のことばかりで、相手の気持ちになって行動しない

所詮が、自分勝手な人間ばかりだ

 

だから、はっきり言おう

僕が死にたい理由は、そんな奴らが生きている世の中で一緒に生きたくないからである

同じ空気を吸いたくないし

今後も、その様な世の中で生きていける自信がない

 

そう言った犯罪者が死んでも、またウジの様犯罪者が生まれてくる

その理由も、すでに述べた様に人間という見にくいエゴが生まれるからだ

この世の中は正直、腐っている

腐敗している

生ゴミの様に

 

まあ、ここまで言うと愚痴の様になってしまうのでやめて

話を戻そう

 

「死とはないか」にはこうも書かれている

人生では、量ではなく質を求め

人生は全体としてプラスではなく、マイナスだと気づくことがカギとなり

そこには人生の結果ではなく過程が大事とすること

 

つまり、結果ばかり求めていると、大事なものまで見失うことになると

僕も思う。

人生は短い様で長いから、結果ばかり求めると不幸になり、それが続くと苦悩に苛まれると

 

人生は短い様で長いと言ったが

これは古代ローマの哲学者が言っている

「人生は短いわけではなく、我々が人生を浪費し短くしている」と

 

つまり、人生が長いのに、必要以上に無駄なことをしているから、人生が短く感じると言うことである

最後にこの「死とはなにか」にはこうも書かれている

「死をしっかりと凝視し、私たちが決してしない様な形で、死と向き合い、死についてと考える様促す事」と

 

つまり、人生を目の前のことばかりに目を向け短絡的に生きるのではなく、哲学者の様にしっかり死と向き合わなければいけないと言うことだ

だから、安易に死に足を踏み入れるのではなく、死や生と言ったらさまざまな事にも目を向け思考しなければ、人生の質は上がらないし、せっかく生まれてきた事への侮辱にもなりかねないと言う事になる

 

まあ、この動画では、所々は本の言葉を応用したが

それ以外は僕の好きな様に考えまとめたので

この動画やブログを観て、どう感じるのかはリスナーの皆次第である

だから、最後にオチもなければ伏線回収もない

 

まず、オチがなければ面白くないという思考が僕から言わせればおこがましい

から、僕のチャンネルは大体オチがなければ、たまにある時もある

それは置いといて

 

僕も含め

生きる意味がないや

ただ死んでないだけと言ったが

そうなると、生きる意味は自分で見つけないといけない

 

それを踏まえて

君たちはどう生きるか

という言葉をどう受け止めるか

それに尽きる

【惰性で生きている奴が嫌いだ】

『動画で観たい方はこちらから→https://youtu.be/mbgmIGLZY9E

惰性・・・今まで通り、その習慣を送る事

 

世間では、この言葉をしょうがないから仕方なくそれをやっているという意味合いになる

今回はこの本を参照して語っていく

 

内向型の生き方戦略と言う本だ

 

惰性とは関連性がないかもしれないが、実は関連性はかなりある

 

この世の中には、まず外交性と内向性のように人間の社交性の種類が別れている

外交性とは社交的で話好きで活発な行動に現れる傾向があり、この本では社会維持型と言われている

 

内向性は、より内省的で控えめな行動に現れる傾向があり、この本では境地開拓型と言われている

まず、内向的な人とはHSPなどとも言いさまざまな刺激に弱く生きているだけで不利になりやすい

なぜなら、周りに合わせるなどの協調性や社交性がないからだ

 

じゃあ、なぜこの世に内向的な人間が存在するのかと言うと絶滅しないように役割がある

そして、生物は発展を望んでいるから

 

その役割とは、境地開拓型つまりアインシュタインエジソンの科学者の様に新しい何かに追求し発展を紐付ける役割だからだ

そう、内向的な人間は周りに合わせるといった協調性がなくとも、自分の好きな事や社会の為になる開発や発展につながる様な特別な能力があり、それに着実に目を向け力を入れることができる

いわば個性が強いと言ってもいい

 

例えば、誰もやったことがない開発や誰も開発したことがない新製品など

それ以外でも、身近で言うと、新しいアプリの開発、自営業、専門家、研究者、メンタリスト、イラストレーター、漫画家など

 

それほど、この世の中にも自分自身にも境地開拓と言った好奇心の力は強力である

従って、個性を伸ばせる職種ならいいが、安定した集団で働くようなサラリーマンなどは苦痛を感じやすい

僕もこのようなタイプだ

 

それに従って外交性が強い社会維持型はサラリーマンという職種を選ぶ

なぜなら、協調性が高く集団で働いた場合、周りに合わせ表向きのコミュニケーションに長けているからだ

 

だけど、そこにさまざまな欠点がある、コミュニケーションに長けていると言っても、薄っぺらい人間関係しか作れず、表向きだから、相手が何を思っているかまるで気にせず、相手を無理に変えようとする傾向がある 心理学では、他人はどう変えようとも買えられないことがわかっているし

今後、AI技術がさらに発展し、働き口がAIに侵食され働く場所がなくなり、それなりに人ができる想像性がない仕事はなくなっていく

 

すると、どうだ?

社会維持に必要とする働き手としての役割が消え、社会維持型の外交型の人間はどこにも必要とされなくなり働けなくなる

 

だから、そこで、必要なのは境地開拓型であり内向的なひとである

薄っぺらい人間関係、どっちつかずの友情や人間関係、嫌われたくないから全面的にいい人を演じるバカ 自分が1番偉く、賢いと思い込みマウントする無知の無知

そう言った外交性が自分自身や周りを腐らせる

 

協調性が高ければ高いほど、貯金が少なかったり

部屋の汚さを気にしなかったり大雑把なところが目立つ

確かに、そういった社会を維持する者たちがいるおかげで社会が成り立っている

正直、ありがたいが

ただ言いたいことがある

それは、惰性で生きるなだ

 

自分の生まれつきの性質で生き方は左右されるが、それなりに周りに生きるのはやめた方がいい

この世には末人という者たちがいる

これは哲学者ニーチェツァラトゥストラという本で提唱した言葉

 

末人とは、生きる目的がなくて、しょうがなく生きている者たちのこと

つまり惰性で生きてる人たちのことを指す

 

境地開拓型の人の中にも、どう自分の力を発揮していいかわからず末人でいる人もいるが

末人が特に多いのが、外交的である社会維持型である

 

会社に固執して、自分の力ではなく他人に依存して組織に依存して生涯をすごす

ようは、自身の尊厳を他人に放棄している

 

生まれてきて、それなりに周りに合わせて成長し、それなりに勉強し、それなりの趣味を行、それなりに大学に入り、それなりに内定をもらい、それなりに就職し、それなりに恋愛し、それなりに子供を産み、それなりに死んでく

それなりに、僕はそんな言葉が大っ嫌いだ

 

まるで、つまらない人生だ

その人からしたら、楽しいかもしれない

でも、境地開拓型から見れば魅力が全くない

それは、自分のやりたいことに突き詰めていないから

まだ、ホリエモンのように東大を中退して企業する方が理にかなっているし

YouTubeをやって稼ぐ方が合理的だ

 

となると、YouTubeで稼いでる人は自分の好きなことをしている境地開拓型だと見える

しかし、その世界にも、社会維持が侵食しにきている、例えばコムドットのように、それなりに大袈裟な企画をやって、それなりに流行っていることをすれば、バズるではないかと

ふざけるな

境地開拓型を汚すな と思う

 

まあ、それは置いといて、中には人を学歴で判断する社会維持型もいる

だが、どうだ、中卒でも企業して成功している人はしてるし、どんな学歴でも稼いでいる人はいる

大切なのは、過去ではない今だ

 

それなのに、社会維持型の外交型は配慮に欠け人を傷つけることに厭わない、つまり、人の心がわからず、周りの刺激に鈍感だからだ

じゃあ、そもそもの話、どんな基準で内向的か外交的か、つまり、境地開拓型か社会維持か分かれるかというと、生まれつきの刺激の感度の違いである

内向的は刺激に敏感で、外交的は刺激に鈍感

だから、外交的な人間は安易に人が傷つく無責任な言葉を選んでしまう

 

例えば、頑張れなどとすぐにいう

そもそも、頑張っている人は頑張れという前に行動している

 

また、外交的な人間は調子に乗りイジメをしやすい、相手の気持ちがわからず他者の痛みを決めつけ、集団になった途端、自分が強くなったと錯覚するからだ

そして、社会では社会維持型流の教えが多い

実に厄介な世の中だ

 

これまで述べたことは社会維持型つまり外交的な人間へのディスりになっているかもしれない

それもそのはず、今まで生きてきた中で、社交的な人間からは酷い目にあってきたから

決して、社交的な人間が絶対悪と言っているわけではない

そういう傾向が強いだけだ

 

ただ、僕が言いたいのは惰性で生きるのは勿体無いということで

惰性で生きるということは、命の浪費と等しい

あと、そう言った、他人に迷惑になることを厭わず、イジメをし、そんなイキリ野郎が嫌だから、いなくなってほしいと言うまで

 

確かに惰性で生きてる人は多い

それもそうで、皆、生まれたくて生まれたわけではないから

僕も、惰性で生きている部分はある、だけど、好きなことを放棄して、金のために時間を浪費させ生きているわけではない

惰性で生きてる、生きる意味がないから自殺していい理由にもならない

 

ただ言いたいのは、やりたいことをやって生きろ 我慢するな 遊び疲れるまで生きろ

人が死ぬ時に後悔することは、好きなことをやらなかったこと、仕事ばかりして、自分の時間が取れなかったことだ

だから、惰性にではなく、自由に生きろ

後悔する前に

 

とー、この本では内向的な境地開拓型の生きやすい生き方を紹介しているから、最後にそれを紹介する

 

内向的な人間は、まず自分の自由に好きなことをやる引きこもれる場所を作るべきで小さな刺激に楽しんだ方がいい

境地開拓型は結婚して子供をつくる必要がないと思う

 

なぜなら、それ以上の生産性があるから

境地開拓型はネガティヴで完璧主義が多いから、そこは心理学を学ぶべき

でしょうか

 

このチャンネルでは、こう言った本から知識を抽出し哲学と心理学を応用して語ってます

よければ、チャンネル登録お願いします

ご視聴ありがとうございました

【薬を飲まないと生きていけない体】

『動画で観たい方はこちらから→https://youtu.be/33RkzHopL-4

僕はもう、薬を飲まないと生きていけません

 

精神薬を読み始めてから、もう3年は経つ

精神薬は一回飲み続けると完治もしくは疾患が良くなるまで、飲み続けなければならない

何故なら、飲み続けないと、抑うつなどが再発するからだ

 

一回、薬に頼った時点で疾患が再発した時の

反動がデカくなる

だから、薬をやめるときは徐々に段階を踏んでいかないといけない

 

僕は一度試したことがある

薬を初めて一年くらいのことだった

もういいや精神になり、1週間、薬を飲まなかった

 

すると、性格や人格が最悪というより凶悪になり人間関係も行動も全てダメになりそうになった

そう、飲まないだけで人間関係破壊兵器になる

 

もともと、僕は人間のエゴや負の感情に敏感でHSPの傾向があるから

それが、表に全面にでる

そして、自分の憎悪が抑えられなくなり

人間関係を壊してしまう

薬を飲まないと愛も感じられなくなり、憎悪の塊になる

薬を飲まないシラフの状態だと、何も幸福を得られず、憎しみそのものであり、そのままだと生きていけない

 

薬を飲まないで、それを抑える手段はないから、飲むしかない

それぐらい、薬に頼らないと生きていけないもう薬に頼ると戻れなくなる

1日薬の飲む時間が遅れるだけで、止めどなく頭の中が憎しみでいっぱいになり反芻思考になり、頭がいっぱいいっぱいになる

 

憎しみが脳にへばりついて離れない様に

憎しみで溺れるように

結局、強迫観念もそう言った負の感情も

いずれは憎悪にたどり着く

 

自分すらもどん底に否定したくなる憎さ

医者は薬を出しておくでねと笑顔で言うが

もう、ここまで来ると、薬漬けにされている気分だ

 

でも、最近は薬を飲んでも効かなくなってきているので

そうするとまた薬が増える

最大8粒まで増えたことがある

 

こう言う精神的なことは外部の環境が問題なのに薬に頼るのも、おかしな話だ

薬の中に睡眠薬も入っていて、寝れないと、それがさらに追加される

これは任意だが

もう、薬なしじゃあ生きられない

 

薬を飲んでなかった時が恋しいが

薬を飲んでいるから強迫観念が少しは減っていると思う

一回、薬に頼ると飲まなくなった時の反動が大きいのも困ったものだ

一回でも、薬に頼ると辞められなくなるのと同じで

まるで薬物だ

 

でも、ちゃんと医師からの許可を得て処方されているから、そこは安心だが

だんだん、薬に頼らないといけない自分と薬自体に憤りを感じる節がある

薬をやめれたら、どれだけ楽なんだと

 

薬を飲まないといけないから、毎晩、寝る前に飲み忘れていないかのチェックや

旅行先で薬を持っていかないとけない手間が

どれだけめんどくさいか

たまったものではない

 

一度、精神薬を飲み始めると意識が薬に重点を置き、薬を飲まないといけない、今日は飲んだからいいやと、薬付きの生活になる

それでも、症状が良くならない時は増えていく

 

僕が飲んでるSSRIという抗うつ剤

副作用があって

倦怠感や眠気などオーガズムを感じにくい体質になるらしい

オーガズムを感じにくいは文字通り、性行為中にイキにくくなるらしい

だから、1人エッチの時は、どうしてもイケないから足ピンになるとかならないとか

全くもって、面倒で、最悪な薬だ

 

今もつくづく、この薬をやめたいと思っている

いつまで、強迫性障害が続き、いつまで薬を飲み続けるかわからないが

いつか、やめられたらなと思うばかりだ

 

さらに最近ではモンエナもないと元気に活動できなくなっている

そんな、薬漬けの生活だ