真黒日記

このブログはあなたの心の闇に共感する日記です

【死にたい人たちへ】

僕はもう、こんな世界で生きたくない

最近、つくづくそう思う

僕の人生は苦しみしかなかった

どんなに足掻いても地獄なものは地獄だと

だから、頭の中で死にたいと常に訴えてくる

口癖にまでなっている気がする

そうなると、無意識に精神が死に向かっているのが認識できる

もう、疲れたんだよ

疲れ切ったんだ

いくら休もうとも疲れが取れない

なぜなら、生きてるから

死にたがりな精神に、僕はなった

そんな、自分を愛せない流行り病

だから、今回は死についてと反出生主義について深掘りしていこうと思う

今回は専門的な話になるから

2冊の「生まれてこなかった方が良かったのか」と「死とはなにか」と言う本から参照して

僕の意見も含めて混ぜて語っていこうと思う

 

反出生主義には、まず誕生害悪論と言う論理がある

まず、反出生主義とは何か

「自分は生まれてこないほうがよかった(誕生の否定)」と「人間は生まれない方が良いので生まない方がよい(出産の否定)」について考える、という思想で

誕生害悪論の基づき人間が生まれた以上は苦しみを背負う、さらには周りに苦しみを与えるから人間を生むことは害悪という思想である

この世は苦しみしかないから苦しみしか味わえないから存在するよりも存在しない方がいい

快楽と苦痛は非対称で

もしも快楽と苦痛が同時に同じレベルで味わうとしたら

人間はネガティヴな方に情報を感じやすいので苦痛の方が深く大きく感じる

呼吸を無理に止めたように

たとえ幸せになったとしても幸せの閾値はどんどん上がっていく

例えるなら、仕事でたまの休みには快楽を感じるが

常に休みだと、何が快楽なのかわからなくなっていくような

さらに反出生主義によると進撃の巨人ジークの様な考えがある

存在して苦痛を味わうなら、たとえ快楽を得たとしても、快楽すらもない存在しない状態の方がいいのではないかと

だから、全人類が自然に居なくなる不自殺

つまり、自殺せずに人類が滅亡してく子供が産めなくなり自然に人間が居なくなる状態を望む思想

こうした、人間が行う加害行為に着目した主張もある

存在する苦しみの最小化

この世界からの死欲

この本では

子どもを産むか産まないかの理論でもこう定義されている

我々の非対称の義務→幸福な子どもを生み出す義務はないが、悲惨な子ども生み出さない義務はあると

人は生まれてから苦痛を伴えば快楽も味わう

しかし、苦しみの方が大いに感じやすく増大である

だから、子どもを産むなら、かなり検討する理由がある

皆も一度は思ったことはあるのではないか?

なんで、生まれてきたんだろうって

それは、端的にいえば親のエゴで親が勝手に産み落としたからである

今、自身が存在しているのであれば、生まれてからこのかた、死んでないだけである

大抵の親は答えられないだろう

子どもになんで生まれてきたの?と問われても

なぜなら、子どもが欲しいからと言う短絡的な理由だからだ

だから、安易に子どもを産んではいけないのである

一生は振り子のように苦痛と退屈を行ったり来たりするから

だから、快楽なんて二の次どころではない

たとえ、産んだ理由があったとしても家系を継がせると言う天皇や歌舞伎役者の思いで

それでも、子には苦痛でしかない

つまり、生とは苦しみだから

生まれたての赤子が最初に泣き叫ぶのも、それが理由だ

僕は嘘や偽りが嫌いだから、こうしてはっきり言う

じゃあ、なぜ性欲があるのか

それは、個体に死が訪れ、断絶しないように子孫を残そうとするからである

そうやって輪廻転生を繰り返している

だから、歴史的な哲学者達はそれから脱出を試みた

ここではアートマンブラフマンと言う難しい話になるから割愛しよう

結論的にいえば善から悪が誕生するから

悪がない無な状態=快楽であり

生まれてくる本人の方同意なく世に存在させるのは暴力的で許されない

とまあ、子どもは生まれてきて家族も選べなければ親も選べないわけである

今では、親ガチャと言う様な言葉がある様に

それこそ、毒親にあたったら地獄である

まあ、何が快楽かは自分で選べる

今の現実的な状態に注目して生まれてきたことを肯定してもいいが

それが難しいから、反出生主義と言う思想が誕生したのかもしれない

 

さて次は、この本の死について語っていきたい

死とは何か、死んだら無で、それは人格と運動機能が同時に停止して未来に、その人が存在しなくなると言う事

つまり、その人と同じ人格が存在しないかどうか

クローンがいない限り、人格は存在しないから死んだことになる

そして、人は死を恐れる

なぜなら、死を想像できず、人からは得体の知れないモノだと感じるから

さらに、いつ死ぬかわからないなら、より死への恐れがあるのである

そして、自殺についても触れよう

2つの本にも共通して定義されているのは

「自殺は推奨されているものはないが、場合によっては理にかなった解決策」だと

死んだ方がいいのかと言う問いには、各人の境遇によりきりで、人生の期間で楽よりも苦が勝る時、またそれが一生続く場合

結論的に自殺は合理的なのかといえば、死んだ方がマシか 本当にそれ相応の状況なのか

両方がYesでなければ不合理と言うことである

だから、自殺は、時として合理的として正当化できる

人は不合理に自殺をしてしまう時があるそうだ→それは目の前の苦痛にしか目がいかず思考が曇った時に突発的に自殺を選んでしまう時

けれども、一生、安息よりもかなりの苦痛や苦悩を伴う時は安楽死や自殺を選ぶ方が

自分の未来の感覚的には合理的だも思う

それでも、人は未来を予知することなんてできないのだから、未来へ苦痛が続くもしくは

未来に苦痛や苦悩が伴うと言う事は知り得ない

だから、今のうちは自殺を選ぶには相応しくないかもしれない

そこは、僕にはわからない

ただ、言える事は誕生害悪論で人が生まれたから苦悩や苦痛を必ず味わうことになるから

人がどこでどう言う風に自殺を選ぶのかは人それぞれということになる

それとも、それを受け入れて生涯を最後まで生きるのか

芥川龍之介も、こんな名言を残している

「どうせ生きるのなら、苦しいのは当たり前だと思え」と

そのぐらい、生きると言うことには苦悩と苦痛が伴うのである

別に、このチャンネルでは自殺を推奨していない

それは、推奨すると僕が自殺教唆と言う罪になるからだ

僕は個人的に死にたいと思っているのだけど

自殺をしてもおかしくない精神状態かもしれない

だから、死にたいと言う口癖になったのかも

死がなぜ悪いのかというと、死によって周りが悲しむのもあるけれど、1番の理由が死によって未来に受けるはずだった幸福を味わえなくなってしまうからである

ある人は、1人でも人が死ねば、それだけでも国の経済損失になるから死が良くない理由というが

決してそうではない

それは倫理的にあり得ない

話を変えると

死にたいと人に言うと「死んだら周りが悲しむやら、死んだら家族がダメになり死んでもなお周りから恨まれるぞ」と言われるが

どれも無責任な言葉だ

そもそも、こう言う言葉と言うのは

死にたいと言う人の気持ちを許容しておらず

どんどん追い詰めている言葉だ

だから、自殺だけはダメとか、そんな事言うのは我慢しろ、周りに気を遣えと言っているように聞こえる

そもそも「死にたい」と言う言葉が出てくるって事は、相手ゆや周りに頼らず我慢して自分を押し殺した結果出てくる言葉である

なのに、もっと追い詰めてどうする

僕から言わせれば、ただのエゴを押し付けているに過ぎない

知り合いに自殺した人が過去にいるからやめてほしいと言う意味も、あなたの感想であり、その自殺したい人を優先してないエゴな意見だ

まず、死にたいと相手に打ち明けられたなら

その気持ちを許容して、認めないといけない

その、なぜ死にたいか、なぜ死にたくなるような精神状態になったか聞いて認めたり、共感するなりしてから

最後まで相手の話を聞いてからアドバイスをするべきである

さらに、それでも自殺を止める人がいる

口だけならいくらでも言える

なら、どうだ、自殺をしたい人を幸せにできる力があればいいが

例えば{一生分の大金を与えたり

その力がないのに自殺をするなと言う言葉は無責任で、そうやって自殺否定する権利はない

ただの口だけの偽善者だ

世間の皆は世間体に縛られ、そこら辺を履き違えている

世間体、世間体とやめて欲しい

前にも世間体が嫌いだと言う動画を出したこともあるくらい

世間体が嫌いだ

そもそも、世間というか

世界というか、この世の中というか

人間社会というものが嫌いである

世間にはサイコパスや犯罪者、サディストといった関わると迷惑を被る奴らがいる

それこそ、悪口っぽくなるが

勝手に人のキャッシュカードを奴や、人からお金を騙し取る詐欺師、恩を仇で返すサイコパス、愚痴しか言わない奴、すぐに否定や揚げ足、嫌味、妬み、屁理屈を言う奴、マウントやパワハラをしてくる奴

簡単に嘘ばかりつく奴

ネットですぐ誹謗中傷する奴

イジメっこの様な調子に乗って弱いものイジメをする奴、人に底辺というレッテルを貼って洗脳しようとするマキャベリスト、通りすがっただけで陰口を言う奴 野菜嫌いだからと言って価値観を押し付けようとして侮辱してくる奴

この世には必要のない人間なんていないという言葉もあるけれど

本当にこの世に必要のない人間はいる

それが、自分のエゴで平気で周りに迷惑をかける奴や、そう言った犯罪者である

と、この様にゴミの様な人間が、この世間というか世界では蔓延っている

まるでゴミの量産の人間社会だ

人間自体が諸悪の根源の様に

そりゃあ、人間が生まれれば、こういう奴が中には出てきて、人間自体がエゴの産物で闇みたいなものだから

戦争もイジメも差別もハラスメントも犯罪もなくならない

到底、相手のことなんて理解しようともしない

理解できない

自分のことばかりで、相手の気持ちになって行動しない

所詮が、自分勝手な人間ばかりだ

だから、はっきり言おう

僕が死にたい理由は、そんな奴らが生きている世の中で一緒に生きたくないからである

同じ空気を吸いたくないし

今後も、その様な世の中で生きていける自信がない

そう言った犯罪者が死んでも、またウジの様犯罪者が生まれてくる

その理由も、すでに述べた様に人間という見にくいエゴが生まれるからだ

この世の中は正直、腐っている

腐敗している

生ゴミの様に

まあ、ここまで言うと愚痴の様になってしまうのでやめて

話を戻そう

「死とはないか」にはこうも書かれている

人生では、量ではなく質を求め

人生は全体としてプラスではなく、マイナスだと気づくことがカギとなり

そこには人生の結果ではなく過程が大事とすること

つまり、結果ばかり求めていると、大事なものまで見失うことになると

僕も思う。

人生は短い様で長いから、結果ばかり求めると不幸になり、それが続くと苦悩に苛まれると

人生は短い様で長いと言ったが

これは古代ローマの哲学者が言っている

「人生は短いわけではなく、我々が人生を浪費し短くしている」と

つまり、人生が長いのに、必要以上に無駄なことをしているから、人生が短く感じると言うことである

最後にこの「死とはなにか」にはこうも書かれている

「死をしっかりと凝視し、私たちが決してしない様な形で、死と向き合い、死についてと考える様促す事」と

つまり、人生を目の前のことばかりに目を向け短絡的に生きるのではなく、哲学者の様にしっかり死と向き合わなければいけないと言うことだ

だから、安易に死に足を踏み入れるのではなく、死や生と言ったらさまざまな事にも目を向け思考しなければ、人生の質は上がらないし、せっかく生まれてきた事への侮辱にもなりかねないと言う事になる

まあ、この動画では、所々は本の言葉を応用したが

それ以外は僕の好きな様に考えまとめたので

この動画やブログを観て、どう感じるのかはリスナーの皆次第である

だから、最後にオチもなければ伏線回収もない

まず、オチがなければ面白くないという思考が僕から言わせればおこがましい

から、僕のチャンネルは大体オチがなければ、たまにある時もある

それは置いといて

僕も含め

生きる意味がないや

ただ死んでないだけと言ったが

そうなると、生きる意味は自分で見つけないといけない

それを踏まえて

君たちはどう生きるか

という言葉をどう受け止めるか

それに尽きる