真黒日記

このブログはあなたの心の闇に共感する日記です

【全ての出会いに感謝】

全ての出会いに感謝

昔から宗教では感謝を大事とされてきた

なぜなら、感謝は人を幸福に導くからだ

感謝がないと人は孤独になったり自分は不幸だと思いこむ性質がある

なぜなら、感謝している時が1番孤独を感じないから

感謝というのは、今、目の前のことがどれだけ価値があり、どれだけ自分に良い影響を与えているのかを再確認することである

1つたとえをしよう

ある人は言った

今あなたは幸せであると

なぜなら、昭和の戦争の頃なんて非じゃないんだからと

確かに、今の時代、道に横たわってる人じゃない限り

服も着れて、ご飯も食べれて、趣味もできて、仕事もできて、健康でいられて、家にも住めてと本当なら感謝しても感謝しきれないことをあたりまえの様に感じてる

当たり前のことは本当は当たり前じゃない

世の中には体に障害を持ってる人だっているし、働けなく苦労している人がいる

だから、感謝があり、感謝しないとそれに気づけない

人は失って初めて気づく 事故や病気になってから気づいても、もう遅い

僕も実感したことがあった、地元の山で夏に4時間ぐらい迷った時、あまりにも喉がカラカラで何とか家に帰り水を飲んだ時だ

感謝しかなかった

水が飲めることへの

最近思う、つくづく人はよく深い生き物だと

欲を叶えても、また、上の欲を欲する

幸せを味わいすぎたり

それがマンネリしてありがたみがなくなる

だから、少しでも苦しみも味わわないと、普段の幸せを幸せだと感じない

よくこの世は地獄というが、我々生物がそういう性質の地獄だと思う

周りの気付いてないところで人が助けている

それすらも気づいてない人がいる

金払ってるんだから良いんだと

しかし、お金があったって店に欲しいものがなかったり、働いている人がいなかったら

欲しいものや、やって欲しいことすら、やってもらえない

見たい動画があってもYouTube機能や見たい動画を作ってくれる人がいなかったら見れない

公務員だって、公園だって、市役所だって税金がなかったら、存在しない

みんなが助け合ってるから、できることもある

だから、感謝を忘れてはいけない

一見、ウザかったり嫌な相手でも

自分の生活を構成している一部だから、感謝

小さな喜びの積み重ねが幸せになる

幸せも不幸も他人がいなければ手に入らない

だから、人間関係も必要だし、幸福のほとんどは他人がいて手に入る

幸せの閾値は上がるかもしれないけど、そこでどう物や人の価値観を汲み取って

どう感謝して喜びに繋げるかカギになる

たとえ現状が不幸でも、上には上がいる様に

下には下にいる

だからと言って優越感に浸れというわけではない

さっきも言った様に、昭和の戦争時代を考えれば、今がどれだけ幸せかわかる

昭和で苦しんだ人には失礼かもしれない

そうやって比べることが

しかし、昭和の戦争時じゃなくともまともに服を着られず、ご飯や水を飲めず飲まず食わずで苦しんでいるところなんて世界の中にいくらでもいる

そうすると、ご飯や水がいただけることが、どれだけ幸せか

だから、水を飲めれることに感謝

美味しいご飯が食べれることに感謝

服が着れることに感謝

家があることに感謝

エアコンが使えて夏でも冬でも快適に暮らせることに感謝

働けることに感謝

自分より不幸の場面や場合、人を想像すると

自動的に楽になる、

これは、多分不幸せへの処方箋だと思う

取り敢えず、何も楽しくない人はそれをやっても良いが

ただ、代償がある、下を見て優越感に浸ろうが、自分自身は前に進んでないし、現状への不安を薄めているに過ぎない

なぜなら、そこに感謝がないから

だから、不幸も何かに比べるのではなく解釈の幅を広げ、どう捉えられるか

例えば、僕が前にも話したけど、ある友達だと思ってた悪い奴にキャッシュカードを100万不正利用されたと

それでも、不幸ではなく、自分は幸せなんだと解釈するのである

そして、感謝する

なにをバカなことを言っているのだと思うかもしれない

けど、感謝するところもある

まず、僕からお金を使ってくれたということは、僕にはお金があるという事実と価値があるということである

あいつが捕まった場合、あいつを糧にして頑張れるし、あいつを一生捕まったと清清できる、要は昔イジメられて、その延長で金を取られたから、逮捕でき、復讐でき、笑い物にできたと と、こうやって動画のネタにもできた

そしてお金持も刑事裁判で戻ってくる

仮に、あいつが捕まらなくても、きっとろくな人生を歩めないのだろう、何故なら金を盗むろくでもないやつだからだ

だから、全ての出会いに感謝するのである

そうやって故意に傷つけてきた相手でも感謝、何故なら、人生の失敗を味合わせてくれて学びになったから

その時、危害を加えられて衝動的に怒ったりするだろうと言われるかもしれない

しかし、それはお門違いで

全ての出会いに感謝している、その姿勢こそが1番美しいのである

全ての出会いに感謝すれば、全ての人が尊くみえる、愛おしくみえる

そうすると愛に満ち溢れるのである

しかし、自分自身の生きることに必要とされ感謝されなかった人もいるだろう

僕もその1人だった

生きていても、周りから何も感謝されず必要とされてなかった

何のために生まれてきたんだろうって

先述したように、感謝がなかったら、孤独を感じてしまう

生まれてきたことへも生きていることへも感謝されなかったら孤独しか感じない

そういう人に言いたい

感謝したい

生まれてきてくれてありがとう

生きていてくれてありがとう

この動画を見てくれてありがとう

親愛なるリスナーさん達へ

【憎しみと言う強迫観念「強迫性障害について❷」】

僕は何度も言う様だけど、昔は重度の強迫性障害でした

で、今も薬で抑えられている形です

しかし、僕の人生は苦痛つまり強迫観念に囚われ、縛られている人生で

現在も本を読めと強迫観念が働き、無理矢理、本をまとめている状態だ

休業をとっても強迫観念に振り回されて、休めない

だから、伝えたい

強迫観念で苦しめられている人に

と言う事で

今回は、強迫観念について教えます

まず、強迫性障害という病をおさらいしましょう

この病は、強迫症や強迫性スペクトラム障害といい

強い不安や恐怖、こだわりがあることで、“やりすぎ”ともいえる考え、つまり強迫観念

や行動を止めることができず、日常生活に支障が出てしまう病気のこと

そのうちの今回は、強迫症の代表である

強迫観念について触れようと思う

強迫観念は人によって様々な症状があり、度合いも様々である

よく認められる強迫観念には、大きく4つある

・汚染恐怖や不潔恐怖→汚染や洗浄へのとらわれ

・加害恐怖→禁断的思考へのとらわれ

・不完全恐怖→対称性へのとらわれ

・ため込み障害→物をため込むことへのとらわれ

まず

・汚染恐怖や不潔恐怖→汚染や洗浄へのとらわれるでは

何度も同じところを掃除

手を何回も洗って手が荒れる

潔癖症になる

汚いところがさわれない

汚いモノを見ると自分が汚染された様な気分になる

次に

・不完全恐怖→対称性へのとらわれ

これをやらないと不幸になる

これを最後までやらないと痛い目に遭う

思考が極端で0か100の様にやるかやらないか

字をしっかり綺麗に書かないといけない

ミスをしてはいけない

自分が手をつけたものには最後までやる責任があるとか

これを他人にまで強制してしまう事がある

ある種の完璧主義である

次に

・加害恐怖→禁断的思考へのとらわれ

相手に不快になっていないか

周りを傷つけていないか不安になる

時には、やってはいけないことをやりたくなったり、それをやらないと不幸になると思考が働いたりする

次に

・ため込み障害→物をため込むことへのとらわれ

文字通り、モノを溜め込み片づけられなくなる

これは、物を溜め込む症状と整理整頓ばかりしてしまう症状に別れる

物を溜め込む症状では、店などで物があると今、集めないといけないという強い強迫観念を持ち、また物を捨てることに不安を感じる

整理整頓ばかりする症状では、先述した様に

汚染恐怖や不潔恐怖が関わり、物を捨て綺麗にしないといけない思考になり強迫観念が働く

僕も整理整頓をしてしまう症状で、実際に整理整頓が快感になっている

一種の断捨離症だ

この、整理整頓や片付けられないと言った症状は強迫症に限らず、うつ病統合失調症など精神疾患に多い

代表として主な四つの強迫観念を上げたが

それ以外にも強迫観念の種類は沢山ある

これは、各個人にも症状の差がある様に、その人の中で症状や観念が徐々に変化し

新たな種類の強迫観念が生まれていくというものである

例えば、歩いている時に落とし物をしていないか、いちいち後ろを振り返ったり

家中の電気のスイッチなどの小さな動作1つ1つを大丈夫と納得するまで行う

自分の大事な物を持っていると確証があるのに、どこかに消えたと不安になり何度も確認する

無意味なことも何度もやろうとする

この見ている世界が本当に現実か不安になる

目の前にある物が、本当に現実にある物なのか分からなくなる

確認を怠ったら、頭がボーっとして、すぐ忘れ物をする

何度も確認をすれば良い事があるよと誘惑観念で何度も確認してしまう

店で商品に指紋をつけると犯罪に巻き込まれるかもしれないからと思い、日常で手袋をはめる

Twitterのツイートをしていた時でも、素手スマホを触っていると指紋が犯罪に悪用されるんじゃないかと思い込み、手袋をはめツイートをしていた

この様に沢山の強迫観念の例を挙げさせてもらったが、これらの症状はすべて僕も体験した症状である

他にも自傷行為、自殺企画、性的行動化、暴力に生じる場合もある

なにしろ各個人で強迫観念がいろんな症状に枝分かれしていくこともある

また、強迫観念を無視しようとすると

逆に強迫観念が強くなる

強迫観念に従っても従わなくても放っておいたら悪化する

このようなことが続くと、

回避行動が強くなる

確認に周囲を巻き込む(他人を巻き込む巻き込み型で他人にも手を洗うことを強要したりするなど)

という傾向が強くなり

それによって我慢が聞かなくなってしまい、強迫症状が悪化していく

そのような中でうつ病など、他の心の病気を合併してしまうことが少ない

いわゆる他の精神疾患に分裂していく分裂症である

だから、強迫症精神疾患の防波堤の様な役割があり、他の精神疾患も伴ってしまう

例えば

うつ病発達障害パニック障害統合失調症双極性障害になってしまう場合もある

また、逆にそう言った精神疾患発達障害、チック症から強迫性障害になり合併していくケースもある

なので、強迫観念にはこんな症状もある

・抜毛症

・皮膚むしり症

・身体醜形障害

この様な症状は従来は不安や衝動コントロールの問題と考えられてきたが

本質は強迫性障害に近いことがわかってきて、現在は強迫性スペクトラム障害に分類されるようになった

僕もADHD強迫症になった

精神疾患同士は心の問題なので合併しやすい

全く厄介な物である

だから、薬が必要だが、一回薬を始めると辞めて戻った時に症状の反動が大きい

だけど、薬に頼らないと平穏な生活もままならない

と_。強迫観念の話に戻ろう

強迫観念は各個人によってレベルや種類の差が違うが

僕は例外中の例外な強迫観念を患った

それは憎悪

つまり憎しみだ

強迫性障害を患った当初はそんな事なかったが

強迫観念という症状がだんだん自分の中で、生まれつきの性質に伴い変化していった

愛と憎悪の性質

愛がなければ、そいつを憎め

そんな強迫観念

愛がないエゴには憎悪が湧く

だからなのか、僕の周りがエゴだらけで

エゴに塗れているから

憎しみしか湧かなくなった

このエゴだらけの世界が憎いと

この全てが憎いと

この様な憎悪という強迫観念がエゴにベクトルを向ける

エゴを嫌い 愛を好む

エゴと愛は表裏一体だから

醜いエゴには憎悪を

美しい愛には感動を

憎悪という強迫観念

僕はそんな強迫観念という器になってしまった

まるで憎しみが大義の様に

愛と憎悪の産物 愛と憎悪の器 愛と憎悪の現存

完璧主義という極端な性格がその性質を作り出したかもしれない

そもそもといえば、どんな人でも徐々にでも突発的でも強迫性障害になるキッカケはあるだろう

その原因はなにか

それは、後悔によるものが大半だ

結果に失敗し、自分の行った過程に問題があるのではないかと、自分がやった事に無駄な責任を持ち、出来なかったや周りに迷惑をかけたなどに絶望感や後悔を抱き、その後悔が心の中で育って強迫性障害になっていく

強迫症になる人は、繊細で几帳面で倹約家的な傾向があり、完璧主義な性格の面も持ち合わせ、自分の決めたルールや秩序を守る事を好む(誠実的)

よって、完璧に思い通りに出来なかったなどの後悔により、次はこう完璧にやろうや

次はちゃんとやらなければいけないから確認を怠るなや

そんな、自分を律する精神状態が爆発し強迫性障害になる

自身に課した呪いという縛り

そういった呪縛が自分を苦しめてしまう

全て自分の問題にしてしまう

なので、強迫症の患者は、とにかく医療機関に受診したがらない傾向がある

だから、我慢せず医療機関に受診し薬をもらう事が不可欠である

僕も、なかなか病院に行かなかった

なぜなら、症状には気づいていたけど

その強迫行為が自分的に当たり前のものだと認識していたためである

だから、少しでも自分自身を律出しているなど、おかしいと思ったら病院に行ってください

それが、自分の人生の道標になります

今回は2回目の強迫性障害の話でした

過去にも強迫症の事に触れた動画を出しているので、ご視聴してみてください

今回も、ご視聴ありがとうございました

憎しみという強迫観念という話でした

ただ僕は強迫観念という縛り、枷によって、強くなれた、前に進めた

強迫観念があったから、こんなにも本が読めた、イラストの勉強を貪るようにできた

何かを犠牲にするからこそ、手に入るものがある

 

 

【死にたい人たちへ】

僕はもう、こんな世界で生きたくない

最近、つくづくそう思う

僕の人生は苦しみしかなかった

どんなに足掻いても地獄なものは地獄だと

だから、頭の中で死にたいと常に訴えてくる

口癖にまでなっている気がする

そうなると、無意識に精神が死に向かっているのが認識できる

もう、疲れたんだよ

疲れ切ったんだ

いくら休もうとも疲れが取れない

なぜなら、生きてるから

死にたがりな精神に、僕はなった

そんな、自分を愛せない流行り病

だから、今回は死についてと反出生主義について深掘りしていこうと思う

今回は専門的な話になるから

2冊の「生まれてこなかった方が良かったのか」と「死とはなにか」と言う本から参照して

僕の意見も含めて混ぜて語っていこうと思う

 

反出生主義には、まず誕生害悪論と言う論理がある

まず、反出生主義とは何か

「自分は生まれてこないほうがよかった(誕生の否定)」と「人間は生まれない方が良いので生まない方がよい(出産の否定)」について考える、という思想で

誕生害悪論の基づき人間が生まれた以上は苦しみを背負う、さらには周りに苦しみを与えるから人間を生むことは害悪という思想である

この世は苦しみしかないから苦しみしか味わえないから存在するよりも存在しない方がいい

快楽と苦痛は非対称で

もしも快楽と苦痛が同時に同じレベルで味わうとしたら

人間はネガティヴな方に情報を感じやすいので苦痛の方が深く大きく感じる

呼吸を無理に止めたように

たとえ幸せになったとしても幸せの閾値はどんどん上がっていく

例えるなら、仕事でたまの休みには快楽を感じるが

常に休みだと、何が快楽なのかわからなくなっていくような

さらに反出生主義によると進撃の巨人ジークの様な考えがある

存在して苦痛を味わうなら、たとえ快楽を得たとしても、快楽すらもない存在しない状態の方がいいのではないかと

だから、全人類が自然に居なくなる不自殺

つまり、自殺せずに人類が滅亡してく子供が産めなくなり自然に人間が居なくなる状態を望む思想

こうした、人間が行う加害行為に着目した主張もある

存在する苦しみの最小化

この世界からの死欲

この本では

子どもを産むか産まないかの理論でもこう定義されている

我々の非対称の義務→幸福な子どもを生み出す義務はないが、悲惨な子ども生み出さない義務はあると

人は生まれてから苦痛を伴えば快楽も味わう

しかし、苦しみの方が大いに感じやすく増大である

だから、子どもを産むなら、かなり検討する理由がある

皆も一度は思ったことはあるのではないか?

なんで、生まれてきたんだろうって

それは、端的にいえば親のエゴで親が勝手に産み落としたからである

今、自身が存在しているのであれば、生まれてからこのかた、死んでないだけである

大抵の親は答えられないだろう

子どもになんで生まれてきたの?と問われても

なぜなら、子どもが欲しいからと言う短絡的な理由だからだ

だから、安易に子どもを産んではいけないのである

一生は振り子のように苦痛と退屈を行ったり来たりするから

だから、快楽なんて二の次どころではない

たとえ、産んだ理由があったとしても家系を継がせると言う天皇や歌舞伎役者の思いで

それでも、子には苦痛でしかない

つまり、生とは苦しみだから

生まれたての赤子が最初に泣き叫ぶのも、それが理由だ

僕は嘘や偽りが嫌いだから、こうしてはっきり言う

じゃあ、なぜ性欲があるのか

それは、個体に死が訪れ、断絶しないように子孫を残そうとするからである

そうやって輪廻転生を繰り返している

だから、歴史的な哲学者達はそれから脱出を試みた

ここではアートマンブラフマンと言う難しい話になるから割愛しよう

結論的にいえば善から悪が誕生するから

悪がない無な状態=快楽であり

生まれてくる本人の方同意なく世に存在させるのは暴力的で許されない

とまあ、子どもは生まれてきて家族も選べなければ親も選べないわけである

今では、親ガチャと言う様な言葉がある様に

それこそ、毒親にあたったら地獄である

まあ、何が快楽かは自分で選べる

今の現実的な状態に注目して生まれてきたことを肯定してもいいが

それが難しいから、反出生主義と言う思想が誕生したのかもしれない

 

さて次は、この本の死について語っていきたい

死とは何か、死んだら無で、それは人格と運動機能が同時に停止して未来に、その人が存在しなくなると言う事

つまり、その人と同じ人格が存在しないかどうか

クローンがいない限り、人格は存在しないから死んだことになる

そして、人は死を恐れる

なぜなら、死を想像できず、人からは得体の知れないモノだと感じるから

さらに、いつ死ぬかわからないなら、より死への恐れがあるのである

そして、自殺についても触れよう

2つの本にも共通して定義されているのは

「自殺は推奨されているものはないが、場合によっては理にかなった解決策」だと

死んだ方がいいのかと言う問いには、各人の境遇によりきりで、人生の期間で楽よりも苦が勝る時、またそれが一生続く場合

結論的に自殺は合理的なのかといえば、死んだ方がマシか 本当にそれ相応の状況なのか

両方がYesでなければ不合理と言うことである

だから、自殺は、時として合理的として正当化できる

人は不合理に自殺をしてしまう時があるそうだ→それは目の前の苦痛にしか目がいかず思考が曇った時に突発的に自殺を選んでしまう時

けれども、一生、安息よりもかなりの苦痛や苦悩を伴う時は安楽死や自殺を選ぶ方が

自分の未来の感覚的には合理的だも思う

それでも、人は未来を予知することなんてできないのだから、未来へ苦痛が続くもしくは

未来に苦痛や苦悩が伴うと言う事は知り得ない

だから、今のうちは自殺を選ぶには相応しくないかもしれない

そこは、僕にはわからない

ただ、言える事は誕生害悪論で人が生まれたから苦悩や苦痛を必ず味わうことになるから

人がどこでどう言う風に自殺を選ぶのかは人それぞれということになる

それとも、それを受け入れて生涯を最後まで生きるのか

芥川龍之介も、こんな名言を残している

「どうせ生きるのなら、苦しいのは当たり前だと思え」と

そのぐらい、生きると言うことには苦悩と苦痛が伴うのである

別に、このチャンネルでは自殺を推奨していない

それは、推奨すると僕が自殺教唆と言う罪になるからだ

僕は個人的に死にたいと思っているのだけど

自殺をしてもおかしくない精神状態かもしれない

だから、死にたいと言う口癖になったのかも

死がなぜ悪いのかというと、死によって周りが悲しむのもあるけれど、1番の理由が死によって未来に受けるはずだった幸福を味わえなくなってしまうからである

ある人は、1人でも人が死ねば、それだけでも国の経済損失になるから死が良くない理由というが

決してそうではない

それは倫理的にあり得ない

話を変えると

死にたいと人に言うと「死んだら周りが悲しむやら、死んだら家族がダメになり死んでもなお周りから恨まれるぞ」と言われるが

どれも無責任な言葉だ

そもそも、こう言う言葉と言うのは

死にたいと言う人の気持ちを許容しておらず

どんどん追い詰めている言葉だ

だから、自殺だけはダメとか、そんな事言うのは我慢しろ、周りに気を遣えと言っているように聞こえる

そもそも「死にたい」と言う言葉が出てくるって事は、相手ゆや周りに頼らず我慢して自分を押し殺した結果出てくる言葉である

なのに、もっと追い詰めてどうする

僕から言わせれば、ただのエゴを押し付けているに過ぎない

知り合いに自殺した人が過去にいるからやめてほしいと言う意味も、あなたの感想であり、その自殺したい人を優先してないエゴな意見だ

まず、死にたいと相手に打ち明けられたなら

その気持ちを許容して、認めないといけない

その、なぜ死にたいか、なぜ死にたくなるような精神状態になったか聞いて認めたり、共感するなりしてから

最後まで相手の話を聞いてからアドバイスをするべきである

さらに、それでも自殺を止める人がいる

口だけならいくらでも言える

なら、どうだ、自殺をしたい人を幸せにできる力があればいいが

例えば{一生分の大金を与えたり

その力がないのに自殺をするなと言う言葉は無責任で、そうやって自殺否定する権利はない

ただの口だけの偽善者だ

世間の皆は世間体に縛られ、そこら辺を履き違えている

世間体、世間体とやめて欲しい

前にも世間体が嫌いだと言う動画を出したこともあるくらい

世間体が嫌いだ

そもそも、世間というか

世界というか、この世の中というか

人間社会というものが嫌いである

世間にはサイコパスや犯罪者、サディストといった関わると迷惑を被る奴らがいる

それこそ、悪口っぽくなるが

勝手に人のキャッシュカードを奴や、人からお金を騙し取る詐欺師、恩を仇で返すサイコパス、愚痴しか言わない奴、すぐに否定や揚げ足、嫌味、妬み、屁理屈を言う奴、マウントやパワハラをしてくる奴

簡単に嘘ばかりつく奴

ネットですぐ誹謗中傷する奴

イジメっこの様な調子に乗って弱いものイジメをする奴、人に底辺というレッテルを貼って洗脳しようとするマキャベリスト、通りすがっただけで陰口を言う奴 野菜嫌いだからと言って価値観を押し付けようとして侮辱してくる奴

この世には必要のない人間なんていないという言葉もあるけれど

本当にこの世に必要のない人間はいる

それが、自分のエゴで平気で周りに迷惑をかける奴や、そう言った犯罪者である

と、この様にゴミの様な人間が、この世間というか世界では蔓延っている

まるでゴミの量産の人間社会だ

人間自体が諸悪の根源の様に

そりゃあ、人間が生まれれば、こういう奴が中には出てきて、人間自体がエゴの産物で闇みたいなものだから

戦争もイジメも差別もハラスメントも犯罪もなくならない

到底、相手のことなんて理解しようともしない

理解できない

自分のことばかりで、相手の気持ちになって行動しない

所詮が、自分勝手な人間ばかりだ

だから、はっきり言おう

僕が死にたい理由は、そんな奴らが生きている世の中で一緒に生きたくないからである

同じ空気を吸いたくないし

今後も、その様な世の中で生きていける自信がない

そう言った犯罪者が死んでも、またウジの様犯罪者が生まれてくる

その理由も、すでに述べた様に人間という見にくいエゴが生まれるからだ

この世の中は正直、腐っている

腐敗している

生ゴミの様に

まあ、ここまで言うと愚痴の様になってしまうのでやめて

話を戻そう

「死とはないか」にはこうも書かれている

人生では、量ではなく質を求め

人生は全体としてプラスではなく、マイナスだと気づくことがカギとなり

そこには人生の結果ではなく過程が大事とすること

つまり、結果ばかり求めていると、大事なものまで見失うことになると

僕も思う。

人生は短い様で長いから、結果ばかり求めると不幸になり、それが続くと苦悩に苛まれると

人生は短い様で長いと言ったが

これは古代ローマの哲学者が言っている

「人生は短いわけではなく、我々が人生を浪費し短くしている」と

つまり、人生が長いのに、必要以上に無駄なことをしているから、人生が短く感じると言うことである

最後にこの「死とはなにか」にはこうも書かれている

「死をしっかりと凝視し、私たちが決してしない様な形で、死と向き合い、死についてと考える様促す事」と

つまり、人生を目の前のことばかりに目を向け短絡的に生きるのではなく、哲学者の様にしっかり死と向き合わなければいけないと言うことだ

だから、安易に死に足を踏み入れるのではなく、死や生と言ったらさまざまな事にも目を向け思考しなければ、人生の質は上がらないし、せっかく生まれてきた事への侮辱にもなりかねないと言う事になる

まあ、この動画では、所々は本の言葉を応用したが

それ以外は僕の好きな様に考えまとめたので

この動画やブログを観て、どう感じるのかはリスナーの皆次第である

だから、最後にオチもなければ伏線回収もない

まず、オチがなければ面白くないという思考が僕から言わせればおこがましい

から、僕のチャンネルは大体オチがなければ、たまにある時もある

それは置いといて

僕も含め

生きる意味がないや

ただ死んでないだけと言ったが

そうなると、生きる意味は自分で見つけないといけない

それを踏まえて

君たちはどう生きるか

という言葉をどう受け止めるか

それに尽きる

 

 

【惰性で生きている奴が嫌いだ】

惰性・・・今まで通り、その習慣を送る事

世間では、この言葉をしょうがないから仕方なくそれをやっているという意味合いになる

今回はこの本を参照して語っていく

 

内向型の生き方戦略と言う本だ

惰性とは関連性がないかもしれないが、実は関連性はかなりある

この世の中には、まず外交性と内向性のように人間の社交性の種類が別れている

外交性とは社交的で話好きで活発な行動に現れる傾向があり、この本では社会維持型と言われている

内向性は、より内省的で控えめな行動に現れる傾向があり、この本では境地開拓型と言われている

まず、内向的な人とはHSPなどとも言いさまざまな刺激に弱く生きているだけで不利になりやすい

なぜなら、周りに合わせるなどの協調性や社交性がないからだ

じゃあ、なぜこの世に内向的な人間が存在するのかと言うと絶滅しないように役割がある

そして、生物は発展を望んでいるから

その役割とは、境地開拓型つまりアインシュタインエジソンの科学者の様に新しい何かに追求し発展を紐付ける役割だからだ

そう、内向的な人間は周りに合わせるといった協調性がなくとも、自分の好きな事や社会の為になる開発や発展につながる様な特別な能力があり、それに着実に目を向け力を入れることができる

いわば個性が強いと言ってもいい

例えば、誰もやったことがない開発や誰も開発したことがない新製品など

それ以外でも、身近で言うと、新しいアプリの開発、自営業、専門家、研究者、メンタリスト、イラストレーター、漫画家など

それほど、この世の中にも自分自身にも境地開拓と言った好奇心の力は強力である

従って、個性を伸ばせる職種ならいいが、安定した集団で働くようなサラリーマンなどは苦痛を感じやすい

僕もこのようなタイプだ

それに従って外交性が強い社会維持型はサラリーマンという職種を選ぶ

なぜなら、協調性が高く集団で働いた場合、周りに合わせ表向きのコミュニケーションに長けているからだ

だけど、そこにさまざまな欠点がある、コミュニケーションに長けていると言っても、薄っぺらい人間関係しか作れず、表向きだから、相手が何を思っているかまるで気にせず、相手を無理に変えようとする傾向がある 心理学では、他人はどう変えようとも買えられないことがわかっているし

今後、AI技術がさらに発展し、働き口がAIに侵食され働く場所がなくなり、それなりに人ができる想像性がない仕事はなくなっていく

すると、どうだ?

社会維持に必要とする働き手としての役割が消え、社会維持型の外交型の人間はどこにも必要とされなくなり働けなくなる

だから、そこで、必要なのは境地開拓型であり内向的なひとである

薄っぺらい人間関係、どっちつかずの友情や人間関係、嫌われたくないから全面的にいい人を演じるバカ 自分が1番偉く、賢いと思い込みマウントする無知の無知

そう言った外交性が自分自身や周りを腐らせる

協調性が高ければ高いほど、貯金が少なかったり

部屋の汚さを気にしなかったり大雑把なところが目立つ

確かに、そういった社会を維持する者たちがいるおかげで社会が成り立っている

正直、ありがたいが

ただ言いたいことがある

それは、惰性で生きるなだ

自分の生まれつきの性質で生き方は左右されるが、それなりに周りに生きるのはやめた方がいい

この世には末人という者たちがいる

これは哲学者ニーチェツァラトゥストラという本で提唱した言葉

末人とは、生きる目的がなくて、しょうがなく生きている者たちのこと

つまり惰性で生きてる人たちのことを指す

境地開拓型の人の中にも、どう自分の力を発揮していいかわからず末人でいる人もいるが

末人が特に多いのが、外交的である社会維持型である

会社に固執して、自分の力ではなく他人に依存して組織に依存して生涯をすごす

ようは、自身の尊厳を他人に放棄している

生まれてきて、それなりに周りに合わせて成長し、それなりに勉強し、それなりの趣味を行、それなりに大学に入り、それなりに内定をもらい、それなりに就職し、それなりに恋愛し、それなりに子供を産み、それなりに死んでく

それなりに、僕はそんな言葉が大っ嫌いだ

まるで、つまらない人生だ

その人からしたら、楽しいかもしれない

でも、境地開拓型から見れば魅力が全くない

それは、自分のやりたいことに突き詰めていないから

まだ、ホリエモンのように東大を中退して企業する方が理にかなっているし

YouTubeをやって稼ぐ方が合理的だ

となると、YouTubeで稼いでる人は自分の好きなことをしている境地開拓型だと見える

しかし、その世界にも、社会維持が侵食しにきている、例えばコムドットのように、それなりに大袈裟な企画をやって、それなりに流行っていることをすれば、バズるではないかと

ふざけるな

境地開拓型を汚すな と思う

まあ、それは置いといて、中には人を学歴で判断する社会維持型もいる

だが、どうだ、中卒でも企業して成功している人はしてるし、どんな学歴でも稼いでいる人はいる

大切なのは、過去ではない今だ

それなのに、社会維持型の外交型は配慮に欠け人を傷つけることに厭わない、つまり、人の心がわからず、周りの刺激に鈍感だからだ

じゃあ、そもそもの話、どんな基準で内向的か外交的か、つまり、境地開拓型か社会維持か分かれるかというと、生まれつきの刺激の感度の違いである

内向的は刺激に敏感で、外交的は刺激に鈍感

だから、外交的な人間は安易に人が傷つく無責任な言葉を選んでしまう

例えば、頑張れなどとすぐにいう

そもそも、頑張っている人は頑張れという前に行動している

また、外交的な人間は調子に乗りイジメをしやすい、相手の気持ちがわからず他者の痛みを決めつけ、集団になった途端、自分が強くなったと錯覚するからだ

そして、社会では社会維持型流の教えが多い

実に厄介な世の中だ

これまで述べたことは社会維持型つまり外交的な人間へのディスりになっているかもしれない

それもそのはず、今まで生きてきた中で、社交的な人間からは酷い目にあってきたから

決して、社交的な人間が絶対悪と言っているわけではない

そういう傾向が強いだけだ

ただ、僕が言いたいのは惰性で生きるのは勿体無いということで

惰性で生きるということは、命の浪費と等しい

あと、そう言った、他人に迷惑になることを厭わず、イジメをし、そんなイキリ野郎が嫌だから、いなくなってほしいと言うまで

確かに惰性で生きてる人は多い

それもそうで、皆、生まれたくて生まれたわけではないから

僕も、惰性で生きている部分はある、だけど、好きなことを放棄して、金のために時間を浪費させ生きているわけではない

惰性で生きてる、生きる意味がないから自殺していい理由にもならない

ただ言いたいのは、やりたいことをやって生きろ 我慢するな 遊び疲れるまで生きろ

人が死ぬ時に後悔することは、好きなことをやらなかったこと、仕事ばかりして、自分の時間が取れなかったことだ

だから、惰性にではなく、自由に生きろ

後悔する前に

とー、この本では内向的な境地開拓型の生きやすい生き方を紹介しているから、最後にそれを紹介する

内向的な人間は、まず自分の自由に好きなことをやる引きこもれる場所を作るべきで小さな刺激に楽しんだ方がいい

境地開拓型は結婚して子供をつくる必要がないと思う

なぜなら、それ以上の生産性があるから

境地開拓型はネガティヴで完璧主義が多いから、そこは心理学を学ぶべき

でしょうか

このチャンネルでは、こう言った本から知識を抽出し哲学と心理学を応用して語ってます

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ご視聴ありがとうございました

【薬を飲まないと生きていけない体】

僕はもう、薬を飲まないと生きていけません

精神薬を読み始めてから、もう3年は経つ

精神薬は一回飲み続けると完治もしくは疾患が良くなるまで、飲み続けなければならない

何故なら、飲み続けないと、抑うつなどが再発するからだ

一回、薬に頼った時点で疾患が再発した時の

反動がデカくなる

だから、薬をやめるときは徐々に段階を踏んでいかないといけない

僕は一度試したことがある

薬を初めて一年くらいのことだった

もういいや精神になり、1週間、薬を飲まなかった

すると、性格や人格が最悪というより凶悪になり人間関係も行動も全てダメになりそうになった

そう、飲まないだけで人間関係破壊兵器になる

もともと、僕は人間のエゴや負の感情に敏感でHSPの傾向があるから

それが、表に全面にでる

そして、自分の憎悪が抑えられなくなり

人間関係を壊してしまう

薬を飲まないと愛も感じられなくなり、憎悪の塊になる

薬を飲まないシラフの状態だと、何も幸福を得られず、憎しみそのものであり、そのままだと生きていけない

薬を飲まないで、それを抑える手段はないから、飲むしかない

それぐらい、薬に頼らないと生きていけないもう薬に頼ると戻れなくなる

1日薬の飲む時間が遅れるだけで、止めどなく頭の中が憎しみでいっぱいになり反芻思考になり、頭がいっぱいいっぱいになる

憎しみが脳にへばりついて離れない様に

憎しみで溺れるように

結局、強迫観念もそう言った負の感情も

いずれは憎悪にたどり着く

自分すらもどん底に否定したくなる憎さ

医者は薬を出しておくでねと笑顔で言うが

もう、ここまで来ると、薬漬けにされている気分だ

でも、最近は薬を飲んでも効かなくなってきているので

そうするとまた薬が増える

最大8粒まで増えたことがある

こう言う精神的なことは外部の環境が問題なのに薬に頼るのも、おかしな話だ

薬の中に睡眠薬も入っていて、寝れないと、それがさらに追加される

これは任意だが

もう、薬なしじゃあ生きられない

薬を飲んでなかった時が恋しいが

薬を飲んでいるから強迫観念が少しは減っていると思う

一回、薬に頼ると飲まなくなった時の反動が大きいのも困ったものだ

一回でも、薬に頼ると辞められなくなるのと同じで

まるで薬物だ

でも、ちゃんと医師からの許可を得て処方されているから、そこは安心だが

だんだん、薬に頼らないといけない自分と薬自体に憤りを感じる節がある

薬をやめれたら、どれだけ楽なんだと

薬を飲まないといけないから、毎晩、寝る前に飲み忘れていないかのチェックや

旅行先で薬を持っていかないとけない手間が

どれだけめんどくさいか

たまったものではない

一度、精神薬を飲み始めると意識が薬に重点を置き、薬を飲まないといけない、今日は飲んだからいいやと、薬付きの生活になる

それでも、症状が良くならない時は増えていく

僕が飲んでるSSRIという抗うつ剤

副作用があって

倦怠感や眠気などオーガズムを感じにくい体質になるらしい

オーガズムを感じにくいは文字通り、性行為中にイキにくくなるらしい

だから、1人エッチの時は、どうしてもイケないから足ピンになるとかならないとか

全くもって、面倒で、最悪な薬だ

今もつくづく、この薬をやめたいと思っている

いつまで、強迫性障害が続き、いつまで薬を飲み続けるかわからないが

いつか、やめられたらなと思うばかりだ

さらに最近ではモンエナもないと元気に活動できなくなっている

そんな、薬漬けの生活だ

【*人の顔と名前が覚えられません】

貴方は人の名前や顔を覚えれますか?

僕は、今まで生きてきて

今、身近にいる人しか答えれません

多分、昔に同じ学校だった人や先生に会っても誰か分かりません

大袈裟かもしれないけど、仕事場の人とスーパーですれ違ってもわからないと思います

それぐらい、人の顔を記憶できません

これは関心があるかないかとかではなく

遺伝による能力だと思います

今では、僕は22歳なんですけど数年前の高校時代のクラスメイトの顔も名前も思い出せないくらいです

以前、仕事の日の朝の話、駅で高校のクラスメイトに声をかけられて「私のこと覚えている?」と言われましたが、答えられませんでした

相手からは最低だと思われてるかもしれません

でも、仕方ないんです

身近な事しか覚えられない病気なので

世の中には相貌失認と言う病気があるそうです

この病気は、人の顔が識別できないと言う病だそうです

僕も、それに近いと思います

心理学でダンバー数というものがあります

これは人間が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限である

要は、一回に付き合える人間関係の数です

だから、僕はアニメのキャラなどもダンバー数の換算されていて150人以上にオーバーしているんだと思います

普通なら、アニメキャラなどはダンバー数として換算されませんが

僕の場合は脳にある物事を記憶する海馬が欠落していると思います

人は習慣的に触れたものは記憶できますが

習慣的ではなくなったもの、例えば、卒業して合わなくなった同級生を記憶しているのは無理があります

記憶に残っている人は異常か習慣的にクラスメイトや先生を習慣的に思い出しているケースです

初対面で会って名前と顔を覚えれる人も異常です

いう言う人は、あだ名や過去に記憶から似ている人を重ね合わせて覚えているケースです

だから、人の顔や名前を覚えるのが苦手と言う人は安心してください

僕も苦手というか、覚えられないので

多分、僕はこれからも生きていく上で苦労していくと思います

でも、いいんです

人には得意不得意があるので

不得意なモノを無理に伸ばそうとしても時間の無駄です

たがら、無理なら無理で前に進みましょう

得意な事を伸ばす方が合理的だから

あと、多分、人を覚えられない理由は

人間が嫌いだから

【夢中になれるモノが無くなったあなたへ】

貴方はひたむきになれるモノがありますか?

僕は、もうありません

以前まで楽しめたモノも、今では何も面白くない

アニメも漫画もラノベもゲームも

娯楽ではなく、こなさなければならないノルマとして加算されていく

娯楽だったものが、強制的にやらないといけない強迫観念に変わっていく

音楽もYouTubeの動画も、もう飽きた

SNSだって つまらないものばかり流れてくる

何が面白いんだろうって

まるで惰性で生きてるみたいだ

YouTubeにもVtuberの推しはいるが、その配信や動画を見るのもおっくうになっている

1年で500冊まとめた本も、せっかく自分でまとめたのだから、普通はすぐに読み返すが

それさえもめんどくさくなっている

それぐらい生きるのに気力がなくなっている

SNSや動画で笑っている人は

他に面白いものがないから相関的に惰性で笑っているに過ぎない

承認欲求を満たすために

もう、それも飽きた

もう、どうでもいい

今まで、当たり前にやってきたことだってめんどくさくなった

例えば、ご飯を食べること、歯磨き、お風呂に入ることさえ、やりたくない

こうやって動画を作るのも強迫観念で無理やりやっているに過ぎない

今まで、できてたことも

それじゃあ、仕事は?労働は?

論外だ

何もみたくない、何も聞きたくない

何も感じたくない

死にたい、消えたいと言った言葉が頭の片隅に常にこびり付いている

こう言った事を

うつ病の症状で「意欲低下」というらしい

僕はもう薬を飲んでもこういう状態だ

抑うつで何もしたくない

楽しくない

生きるのが辛い

関心がない

興味がない

だから、もう助けすら求めたくない

そうやって孤独で死んでいくんだなと

同じ境遇の人を見て本当によく分かる

いつからだろうな、こうなったのは

死にたくてしょうがなくなったのは

疲れが溜まってるのかもしれない

でも、疲れるような事をした記憶がない

そうか、生きることが疲れることなんだと

僕だって色々調べた

意欲低下は物事全般にやる気がなくなるらしい

さらに、それはどんどん悪化していく

で、その改善策は

まず、❶やってみて慣れること(慣れの効果)何か始めるにはエネルギーが必要ですが、始めてしまえば案外、その後は流れでやれることは少なくないと

❷小さな成功体験

何かをとりあえずやれると、「次もやれるんじゃないか」という自信につながるらしい

❸ ストレスや不安の発散

動くこと自体がある種ストレス発散でありますし、不安解消にもつながるらしい

けど、例外があって

動かない方がいい場合がある

❶急性期のうつ病

この時は消耗してしまっていますので、まずは休養が必要

疲労や体調不良

そういう時に無理をするともっと体調を崩してしまいますので、この時はまず休むことが大事

3)不眠が続く時

不眠が続くと当然体調不良も悪化し、無理して動くとさらに赤するため、この場合も少しゆっくりすることが求められる

以上

調べた結果がこれだ

僕も、もう2年は休業している

なのに、疲れて何もやる気が出ない

いいんだよ、これで

もう、動きたくなければ動かなくても

無理しなくても

もう、頑張ったんだから

疲れたんだから

僕は、無理に頑張れという奴が嫌いだ

なぜなら、無責任だから

常にこっちは頑張っているのに

それすらも無碍にする様に

だから、何も夢中になれない人は聞いてくれ

それでいいんだ

疲れたなら疲れたで

めんどくさいならめんどくさいで

何もやらなくていい

人生を諦めろと言っているわけではない

これは時間が解決してくれるから

今は無理に動かなくていい

ただ、それでいい

死ぬぐらいなら、その分、休んだ方がいいから

疲れたなら、休んでもいいんだよ

周りに迷惑がかかるとかじゃない

大事なのは自分だから

自分を癒せるのは自分しかいないから

だから、今は何も考えるな